大阪にある日本最大の韓国仏教寺院 民衆仏教観音寺

大阪にある日本最大の韓国仏教寺院 民衆仏教観音寺

  1. 観音寺を知る
  2. お知らせ
  3. 訪れる
  4. ふれ合う
  5. 観音寺の活動
  6. オンラインサービス
  • 釈円然管長の法話
  • 観音寺スニムの法話
  • 月刊民衆仏教エッセイ
  • 月刊民衆仏教コラム
Home > ふれ合う > 観音寺スニムの法話 > 自我

観音寺スニムの法話

自我

丙成年もあと少しで年末を迎えます。今年は満足の出来る年でしたでしょうか。
最近、風邪やインフルエンザやノロウイルスが流行っています。くれぐれも身体をご自愛召されますよう。今年も後数日で新しい年を迎えるまでになりました。健康で新年を迎えられます様にお祈りしています。

先日、或る雑誌を読んでいたら、気になる文面が目に留まったので記述してみます。

或る新聞記事を目にした記者が、一人の僧侶に質問をしている「貴方は何時何処で悟りを開いたのですか」と聞くと、僧侶の答えはこうだった。

何時とか何処とかは私は知らない。悟りは時間や空間の中で起こるものではない。何時とか何処とは時間と空間である。それが起こるのは、誰も何処にもおらず、誰もいない時だ。それが起こるのは、其処に永遠があり時間と謂うものが無いときである。僧侶は、この様に答えた。

彼の答えは多くの人を感心させ感動させた様に見えたかも知れない。人々はすぐに騙されてしまう。最近の知識人は、こぞって禅に大変な感心を寄せているが、然しその感心は知的なものに留まっている。禅については優れた本も沢山書かれ出版され、書店の棚には沢山の禅に関する書物が並んでいるが、知識人達が如何にすばらしい本を膨大に書いたとしても、確かに彼等の学識は素晴らしく大したもので表現力も大したものだが、然し彼等は禅者ではない。まして禅師でもない。

禅と謂うものは頭の中や書物で伝え考えるものではない。世の中に明確に伝える為には、論ではなく実践「體傳體得」でなければならない。禅とは無心の空間であるという。宗教は皆こぞって自我を落とせというが、禅は自我を超え、自己を超えているものだと言われている。禅を除いてはどのような宗教も、自己を超え、魂を超え、個々をも超える地点には到達してはいない。

それは偏に人間意識に対する一人一人の人間仏陀の責献に依るものだからである。禅は究極の開花であり、仏陀のイメージを少しずつ磨き上げながら禅師一人一人が何らかの貢献をし、新しい地平を斎して来たものである。仏陀は人類の歴史の中で唯一人、自我を落とすだけでは駄目だ、神をも落とせば自我も簡単に落ちると言った人である。仏陀は神を落とした。すると自我は消えうせた。月が雲間に隠れれば影も消えうせる。

貴方が鏡の前から離れたとすると、鏡の中の貴方も消えうせる。或る醜い女性が居て鏡に対してノイローゼになっていた。
鏡の前に立つとどうしても自分の醜さを意識させられる。自分の知っている限りには、自分は美しいと思っている。それで鏡さえ無ければと、鏡を見る度に鏡を壊す。それが他人の家の鏡であってもすぐに鏡を壊してしまう。鏡のせいで自分が醜く見えるからだ。彼女の醜さは鏡には何らの罪も無いのに、醜いのは彼女自身なのに、鏡のせいにして、鏡に八つ当たりをし鏡と戦っている。

これが今の宗教の全貌で本質である。鏡と戦い、影と戦い、神を落とさずに、自我を落とそうとしている。
それこそが自我なのである。仏陀は神と謂う観念を捨てた。すると驚くべき事に自我も消え去ったのである。今まで戦ってきたのは、それは神の影でしかなかったのである。神を除去しない限りは自我は除去できない。それは影だからだ。マインドと謂う小さな池に究極の嘘が映っている。

仏陀は理解した。神が消えると自我が消え去る。自己さえも消え去る。宗教の中には、神や自我自己を持つものがある。「ユダヤ教やキリスト教やイスラム教」などである。又、神を持たない宗教もある。「道教・仏教・ジヤイナ教」などである。この宗教には神が無いから自我は独りでに落ちるが、自己は残る。それで全力を傾けて、自己を純粋なものに、敬虞なものにしようとする。

そうして別種の努力が現れるのである。仏陀の説く自由とは、神を落とし自我が無くなると、自己もまた足場を失い、根拠のないものになる。自分の内側深くに入って行けば、突然、自分は意識の大海に消え去って行く。自己なる者は無い。貴方はいなくなり、唯一存在のみが残る。

禅こそは、自己からの本質的な自由と謂う。他にも自由と呼ばれるものは色々とあるが、自分自身からの脱却こそ究極的な自由だ。
自分は存在せず、存在が自分自身を表現するに任せる。何処までも無碍自在に、壮大に、それは存在であって貴方でもなく私でもない。それは「生」そのものが舞い踊っているのであって貴方でも私でもない。これこそが禅の自己自身からの自由だと謂うのである。不生禅と謂う言葉がある。不生と謂う言葉は、般若心経で明らかなように「不生不滅」と使われる。生れる事も無ければ滅びることも無い絶対不変と謂う意味である。

合掌

慧覚

  • 観音寺へのご意見・お問い合わせ
  • サイトマップ
ページのトップへ
大阪にある日本最大の韓国仏教寺院 民衆仏教観音寺 Copyright (c) 2006 観音寺. All Rights Reserved. ホームページ制作のシャインシステムズ